2014年11月2日日曜日

「天皇と東大」を読んだ


 巻末に参考文献が数十ページにわたって記載されてる。東大の淵源は明治からの近代国家建設のベーシックな役割、国家官僚と殖産への知見提供など現代日本の大学の役割よりも国家的なスキームが強かった。しかも明治維新での勝って官軍の支配原理を天皇への復古で成し遂げはしたが欧米列強からの一方的な近代化要請に屈服し続けるわけにもいかず憲法制定と国会開設への流れが必然化する。東大の時代要請は有能な国家官僚をまずは輩出することだった。しかし洋行帰りの教授達は海外で学んだ学識で学の独立、大学の自治を目指した。政治的争点にも積極的に参加し運動した。
 本書は著者の執筆動機への肉迫として1945.8.15へのカウントダウンつまり国家破綻に向かう歴史の流れにおいて東大教授の様々な立場からのコミットメントが描かれる。軍部の天皇信仰を活用した国家統制が実はもっとも国体利用の売国(君側の姧)であった。国体明徴運動がもたらすナショナリズムの弊害は自己の正当性への絶対化をテロルも辞さない直接行動を抵抗勢力へ課していく。血盟団事件、5.15事件、2.26事件。満州事変。軍部の内部派閥闘争と外地侵略の暴走がある抜き差しならない既成事実を構築しますます日本は戦争への国家的体制確立に邁進していった。「百姓にも豚にも歴史はありません!」という国学史の平泉澄教授の天皇神格思想では「国民全員が楠木正成の如く死をもって天皇陛下へ忠義を建てるのが真の日本人であり、天兵に敵なし」として東条英機らの軍部が心酔していく。原爆が落とされても陸軍はこの思想のままに一億総玉砕の本土決戦を唱えていた。人間魚雷も神風特攻隊も集団自決も淵源は平泉教授の忠君自決思想であった。
 閑暇休題的に言えば学生と教授、先輩後輩の間で実は少年愛なる友愛関係がかなりあったらしい。
 さて歴史認識の正当性は主体行為である以上、主観的思想性を脱却できない。そこに歴史の書き換えが必然となる。歴史的事実の記録それ自体にバイアスがかかる。だからこそありとあらゆる文献を漁色するが如くあたるのが最良であろう。

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